教如上人の生涯と東本願寺の創立

今年は東本願寺を建立した、本願寺第12世教如上人の400回忌に当たり、本山・東本願寺では4月2日~4日まで、法要と講演、シンポジウムや関連資料の展示など、非常に内容の濃い法要が勤まりました。私もこれまで認識していた教如上人への思いを新たにさせられ、改めて教如さまのご生涯が尊く感じられてなりませんでした。
世間では、「本願寺の東西分立」と言われ、「本願寺の勢力を恐れた徳川家康が二つに分断した」などと言われていますが、事実はまったく違っています。今回明らかになった大切なことは、「本願寺の東西分立」ではなくて、「東本願寺の創立」というその大きな意味がはっきりしたことでした。
そうした資料や、研究者たちのご意見を踏まえ、私が推測するこの日本史最大のお家騒動の顛末を、たいへんな長文になってしまいましたが、最後までぜひお読みください。

【これまでの風聞】
東西本願寺の分立は、一向一揆を支配し、実碌百万石にも匹敵する本願寺の勢力を分断するために、徳川家康が引退していた教如上人に東本願寺を建てさせたと言う説が、まことしやかに語られている。しかし10年に及ぶ織田信長との石山合戦を経て大坂退去を余儀なくされた本願寺は、すでに信長などの戦国大名に対抗する力はなくなっていたと考えるべきだろう。事実、本能寺の変の後は、もっぱら豊臣秀吉の庇護の元で、痛みきった教団と寺跡を回復させている。大坂退去の直後こそ自発的に紀州・鷺の森に移ったが、それ以降は秀吉に命じられるままに泉貝塚→大坂天満→京都堀川へと移っている。短期間にこれだけ寺基を移転させられることは、財政的負担は相当なものであり、にもかかわらずその命令を拒む力は、すでに当時の本願寺にはなかったと言うべきだろう。

【東西分立の原因】
この問題については、すでに多くの研究者が石山籠城中の顕如・教如父子の路線対立が原因であることを指摘している。私もそう思う。しかし一方で、親子の義絶は表向きのことで、実は裏で二人は通じ合っていて、退去と籠城という二面での作戦を遂行していた等の説も後を絶たない。大坂拘様(おおさかかかえざま)(教如が退去した父・顕如と別行動をとり、石山本願寺に籠城して抵抗したことを指す)が限界を迎え、退去を余儀なくされた教如は、生まれ育った石山本願寺に自ら火を放ち、その煙に紛れて大坂を退去した。その足で父・顕如のいる紀州・鷺の森に向かうが、顕如は義絶を解かず、教如は行き場所を失って、それから2年間諸国を秘回するのである。
しかし本能寺の変で信長が死ぬと、教如はすぐに鷺の森に向かい、顕如との対面を願い出る。顕如も信長の死で状況が変わったとして、すぐに教如の義絶を解いている。それ以降、二人は力を合わせて泉貝塚→大坂天満→京都堀川と、権力者・秀吉によって何度も移転を余儀なくされる本願寺を守り抜いていくのである。

【顕如の死、教如の継承そして退隠】
京都堀川に、約130年ぶりに寺基を構えた本願寺で、激動の時代を生きた本願寺第十一世・顕如はこの世を去った。享年五十であった。すぐさま嫡男の教如が秀吉の命令によって本願寺第十二世を継承し、父の葬儀を取り仕切った。
しかしそれから数ヶ月後、事態は急変する。秀吉から大阪城に呼び出された教如は、そこで父・顕如の譲り状があり、それに従えと命令されたのだ。それは、今後十年間在位し、その後は弟の准如に継承させるということであった。譲り状には「本願寺留守職のこと、阿茶(准如)へ譲りそうろうこと…」と書かれてあった。教如はこの時驚愕しながらもそれを受け入れたが、側近である坊官(家老)の下間頼廉が激しく秀吉に異議をとなえたため、それが秀吉の逆鱗に触れて、十年在位ではなく即刻退位となってしまった。第十二代本願寺教如の在位は一年に満たないものであった。

元来、この譲り状は偽作とされている。つまり教如の引退は何者かに画策された謀略だったのである。それは誰だったのか。直接の実行犯は母親の如春尼と言われているが、裏にその絵を描いた黒幕がいたはずである。また当時の本願寺内部の人事も、このことに深く関係しているようだ。ドロドロとした人間関係が絡み合い、権謀術数の限りを尽くして、この世紀のお家騒動が起こったのである。しかもその影響は、大名家のお家騒動などの比ではない。浄土真宗に命をかける僧侶・門徒の信心と生活をも揺るがすものであった。

【本願寺内部の軋轢】
当時本願寺には門主・新門主である顕如・教如をトップにいただき、その下には坊官と呼ばれる3人の家老がいた。家老は本願寺の運営を司り、あるいは戦国武将のように合戦の指揮をとるなど、その権力は絶大なものであった。この3人の家老が、下間頼廉・下間仲之・下間頼龍である。
当初、顕如・教如父子は、信長との最後の引き際をどうするかで意見を戦わせていた。顕如はこれ以上戦うことは、教団全体の力を失い、ややもすれば滅亡しかねないとして、朝廷に和議を申し立て、信長に大坂を明け渡すのもやむなしとしていた。一方、教如は「それではこれまでの戦いで命を落とした無数の門末に顔向けができないではないか。そして信長が約束を反故にして、退去した本願寺に再び兵を向けない保証はない。安易に退去はすべきでない」と、強行に主張した。実はここにも多くの背景がある。全国から大坂へ向かう僧侶・門徒は、宗祖の聖地を信長の馬蹄から守らなければならないと思うものが多く、一方本願寺の中枢は、戦いに疲れ果て、和議・退去でこの戦いに幕を引きたいとの思惑があった。そして、和議が成立し、退去の時が近づくと、退去と籠城で両派の意見対立はいよいよ激しくなっていった。しかしそれでも、顕如と教如の意思疎通は確保できていた。
しかし、退去を急いだ顕如は、予定より早く退去を敢行した。これ以上両派の争いを深めないための方途であった。それは逆に教如に籠城の志を固めさせ、親子は引き裂かれていく。そしてこの状況にいたって、親子の意思疎通は決定的に疎遠になるのである。 この二人を離反させるべく動いたのが、家老たちであった。とりわけ下間仲之は教如を嫌い、大坂より届く教如の手紙を顕如に取りつがなかったと思われる。教如も仲之が謀略的であることを感じていて、一老の下間頼廉に取り次ぎを頼んでいる。しかし父子の間はいよいよ開いて行き、とうとう顕如は教如を義絶するのである。
教如の大坂籠城いわゆる大坂拘様は、顕如退去の担保として、殿軍の役を与えられたとする説がある。退去していく顕如の後方支援を教如が担うのである。これは当時の戦線離脱ではよく取られた方法であり、有名なところでは信長が浅井朝倉の連合軍の挟み撃ちに遭って、そこから脱出するために、秀吉が最も危険な殿軍をかって出たことがあった。 この教如殿軍説はかなり信憑性のある話で、それでは誰がこの絵を描いたのかと言えば、下間仲之であるという説が有力である。家老たちにしてみれば、教如とそれを支える徹底抗戦派の地方坊主を殿軍にしておけば、信長によってまとめて殲滅されることを期待して、この絵を描いたというのである。事実、その方向で事態は動いた。しかも父子の意思疎通が家老によって分断され、教如の立場はますます不利になっていく。その結果の義絶である。この先どこでのたれ死んでも、顕如や側近の下間氏は何の痛みもないのである。
家老の中で、一人下間頼龍だけは教如の側についた。彼は顕如の元を離れ、諸国を流浪する教如と行動を共にした。また教如は仲之に強い警戒感を持ちつつも、頼廉には連絡を取り続けている。しかし私には、この頼廉もくせ者だったと思えるのである。それは後に記述する。

【本能寺の変後、父子の和解】
大坂を退去した後、教如は秘回を続ける。信長がいるので、顕如とは会えない義絶状態が続いていた。しかし本能寺で信長が自刃すると事態は一変する。 信長死すの報は教如にも届き、教如はすぐさま紀州・鷺の森に向かった。顕如も廃嫡を翻す時を待っていたようだ。二人は合流し、和解した。その後の父子は秀吉の計らいもあって、とりわけ教如は顕如を補佐し、門主の代行を勤めるなどして、関係は修復されたかに見えた。
その一方で教如は豊臣政権の中枢と深い関わりを持っていく。千利休との関係はいよいよ深くなり、教如は大きな茶会での茶頭を何度も任されている。しかしこのことが、後に教如に大きな影を落とすことになるのである。 本願寺はその後、泉貝塚→大坂天満を経て京都堀川に安住の地を定める。

【顕如の死、その意味するところ】
大阪退去後、何度も移転を重ねた本願寺を守り通した第十一世顕如光佐がこの世を去った。戦国乱世の中を、苦難に揺れる本願寺を守り抜いた生涯であった。先述したように、秀吉は直ちに教如に継職を命じた。すると教如は、ずっと顕如の側近であった下間仲之の家老職を取り上げ、閉門を命じた。これまで何度もこの二人は確執を繰り返してきたが、それでも顕如の在世中は表だった対決を避けていたようだ。しかし顕如没後の今、積もり積もった教如の不信感は、仲之閉門へと向かった。仕方ないことであった。
しかしこの下間仲之、とんでもない謀略の男である。かつては顕如と教如の離反を工作し、説によると抗戦派と教如を殿軍にして本願寺の盾に使った首謀者とも目されるその男は、謀議を図らせたら門主教如の比ではない。どちらかと言えば、教如はそうした謀略には無縁で、身の丈6尺(180㎝)の威風堂々とした体躯、正々堂々の直球勝負が持ち味の豪傑であった。下間仲之は、能の名手であることを利用しながら、閑職中に秀吉側近の石田三成と深い関係を結んでいく。その成果が一年後に現れるのである。
秀吉の身辺にも変化があった。大和大納言と言われた弟豊臣秀長が死んだ。これによって、政権内部のバランスが崩れ、太閤秀吉を死守するためにはエキセントリックな手段も辞さない石田三成が台頭してくる。彼はあることないことを讒言して、秀長の後ろ盾を失った千利休を切腹に追いやった。そこで次のターゲットになったのが、利休と親しい教如である。希代の策士である三成と、奸智に長けた仲之のコンビによって、教如引退のカウントダウンが始まった。
私が想像する教如引退の絵はこうだ。まず顕如の譲り状を偽作し、それを妻であり、教如・准如の母である如春尼に持たせて秀吉に訴え出る。如春尼は、教如の妻女が気に入らないこともあり、また大坂拘様以来、すでに教如と反りがあわなくなっていたし、末子准如への溺愛もあって、この話に乗ったと思われる。そしてここで、もう一人の家老・下間頼廉が登場する。彼は常に顕如・教如の信頼が厚かった。教如も、仲之の首は切ったものの、頼廉に対しては父と同じように厚く遇したのである。仲之は頼廉にある話を持ちかけたのだろう。 つまり、最初の条件である「教如が十年間在位の後に、弟准如に家督を譲る」という話は、考えてみれば遠大な話で、もし政治状況が変化すればその約定が守られないことも十分にあり得るし、ましてこれから十年間命をながらえる保証はどこにもない。そう考えると、即刻引退に導くしか方法はなくなる。つまりそれは天下人秀吉の逆鱗に触れることによってのみ可能となる。仲之は頼廉に話を持ちかけ、准如継承後の地位の安泰を約束した上で、一芝居打つように仕向けたのだろう。先述のごとく、秀吉の前で譲り状を披露され、困惑しながらもそれに従おうとしている教如本人を尻目に、頼廉は烈火のごとく怒り、秀吉と閣僚に抗議した。そしてその結果、台本通りに秀吉が激怒し、教如の即刻退位、准如の本願寺継承が決まったのである。顕如の死からわずかに11ヶ月後のことであった。 ちなみに准如が本願寺を継承すると、仲之は家老に復職し、頼廉はその後ずっと准如を支え続け、その一族は本願寺家老の筆頭であり続けた。私が教如排斥の黒幕を下間仲之、実行犯を如春尼、トリガー役(引き金)を下間頼廉と指摘するのは、准如の本願寺継承後の彼らの地位がそのことを物語っているからである。 後述するが、関ヶ原の戦いの後、教如が家康の本願寺門主復職要請をかたくなに断った原因が、この下間頼廉の行動にあると私は確信している。考えていただきたい。頼廉が豊臣秀吉の前で「譲り状」の真偽にクレームをつけ、それが秀吉の逆鱗に触れて、教如は本願寺門主の座から追われたのである。つまり頼廉が教如を追い込んだのだから、彼が本当に教如を支えるつもりであったならば、教如を引退に追い込んだ責任をとって切腹するか、蟄居閉門を申し出るのが普通である。しかし結果は、まったく違うものであった。頼廉は教如と離れ、准如の重臣として迎えられ、その一族は幕末まで西本願寺坊官最高の地位にあった。教如はこの陰謀に頼廉が関わっていたことを後から知ったのだろう。信頼していた家臣に裏切られたことを知った衝撃は、いかばかりだっただろう。しかもそこに実の母が関わっているのである。極端な人間不信に陥ったことに違いない。教如が本願寺門主への復職を絶対に固辞する理由はこれであることが断言できる。人間とはそういうものである。 人間不信と絶望と慚愧のただ中にあって、彼は本当の回心(信仰を得ること)を迎えたと思う。それは大坂拘様から、諸国秘回の苦難を経て、自分を信じ、今も支え続けてくれる全国の名も無い群萌の存在である。彼らの存在は弥陀の光明となって、絶望の淵にあった教如を再び立ち上がらせたことだろう。それが新しい本願寺の創立という、教如の新たな使命を誕生させたのである。 余談であるが、もう一人の家老、下間頼龍はその後も教如に仕え、東本願寺の創立とともに、教如に従って堀川本願寺を去り、そのまま東本願寺の坊官となった。

【隠居した教如】
本願寺内部のすさまじい謀略的政変によって、引退に追い込まれた教如であったが、我が世の春を謳歌するはずだった准如・如春尼母子や下間仲之も、大きな誤算に苦しむことになった。大坂籠城以来、地方の大坊主や有力門徒には本願寺中央での政変で引退させられた教如を支持するものが多かった。なんと言っても時は封建時代である。本願寺の嫡男として揺るぎのない存在感を持った教如と、末子の准如ではネームバリューが違う。准如の継承に失望した者も多かったであろう。
この時代、嫡男である新門主・教如には、帝王学ともいうべき教学・儀式が伝授されている。本願寺は教学・儀式が門主から新門主へという流れを持ちながら運営されている。それに比べて准如は末子であるから、そうした帝王学を持たない。教学・儀式のマジョリティーは教如にあって、すさまじい権力闘争の果てに本願寺を継承した准如は、寺宝や堂宇などのハードウェアは継承したものの、宗教教団のいのちである教学や儀式といったソフトウェアは継承できなかった。すなわち真の本願寺継承者たる教如にそれは引き継がれた。 実際、東西本願寺の分立後、西本願寺では教学・声明作法などは多く天台や浄土宗から補填して、現在にいたっている。石山本願寺以来の声明作法や蓮如の相伝儀書などを守り続けている東本願寺とは対照的である。 教如の引退から関ヶ原の戦いまで、教如は堀川本願寺の北にある屋敷に蟄居しながら、下間頼龍らとともに精力的に活動している。大坂に大谷本願寺(現難波別院)を再興させたり、教如の精神はどこまでも本願寺の正嫡であった。門末からの本尊下付の依頼などは、本来本願寺門主が行う行為で、引退者には禁じられていたが、教如は門徒の求めに応じて本尊下付を続けた。これについては、准如から再三そのようなことをしないよう要請されていたという。
教如の心中には、この頃すでに新しい本願寺創立の構想が芽生えていたと思う。石山本願寺に生を受けた教如は、信長との石山合戦の果てに紀州・鷺の森→泉貝塚→大坂天満→京都堀川と移転を余儀なくされた。石山本願寺ならいざしらず、移転の果てにたどりついた堀川本願寺にノスタルジーのあるはずはない。それに加えて先述した如く、俗世の政界もたじろぐばかりの陰湿極まりない権力闘争の果てに、その地位を追われた教如にしてみれば、堀川の本願寺は宗祖の教えなどどこにも見当たらない魑魅魍魎の魔窟であったろう。それよりも、全国を秘回中に出会った名もない無数の門徒の支援こそ、真の本願寺精神だと確信していたに違いない。来る新本願寺創立に向けて、教如は全国を飛び回った。

【秀吉と如春尼の死】
1598年、関ヶ原の戦いの2年前、天下人・太閤秀吉が死んだ。本願寺への弾圧を繰り返した主君・織田信長とは一線を画し、秀吉は終始本願寺を統制・保護した。しかしある面では信長以上に、本願寺に影響を与えた人物だったと言える。教如の門主引退も彼の一声で決まった。
母・如春尼も同じ年、この世を去った。55才であった。彼女は三条西公頼の末娘として生まれ、二人の姉は武田信玄と細川晴元に嫁ぐ。教如との不和から、彼女は教如の母ではないと言われることが多かったが、実母である。溺愛した末子の准如と教如は父母を同じくする兄弟である。もう一人、本願寺の脇門跡である興正寺に養子へ行った次男・顕尊が間にいる。この顕尊が引退させられた教如に同情し、母や弟との間を取り持ったようだ。
教如とはいろいろ対立することは多かったが、教如はこの母を慕っていたようだ。1584年、二人は宇治への見学に出かけたという記録がある。 また如春尼の死去の際、教如は最後の面会を准如に申し入れたが、それは断られた。しかし次男・顕尊の取りなしによって、葬儀の時の焼香は許された。

【退職から関ヶ原の戦いまで】
門主引退後、教如の支持者への行動はいっそう活発化する。そうした動きに敏感に反応したのが、准如や下間の家老たちであった。彼らは秀吉に訴えて、全国の諸大名に教如を支持する寺や門徒を厳しく弾圧させた。 私はかつて、三浦半島の西本願寺の住職に、「東西分派の折には、さかんに報奨金が飛び交って、激しい引き抜きが行われた」という話を聞いた。さもありなんと思って今日に至ったが、これは徳川の金城湯池である関東だからその程度で収まっていたのだ。ところが北陸では、准如は秀吉を動かして教如派弾圧に踏み切った。前田利長は越中国内の坊主を呼び出し、筆頭伏木勝興寺・井波瑞泉寺に取り締まらせて、教如派を徹底的に弾圧した。一部の寺院の動きを察知すると、慶長2年7月4日に彼らを捕らえ、6日には首を討ち、獄門さらし首として見せしめにした。地方領主による教如派弾圧の端緒であった。
私はこのことを、ご本山の展示資料で初めて知った。資料には絵伝があり、そこには「堀川本願寺に従わない者はこうなる」という、見せしめ文言が記されていたという。今回私は、改めて准如の本願寺に強い憤りを感じた。本願寺内の謀略の限りを尽くした権力闘争を、地方の僧侶や門徒にまで拡大し、弾圧まで行って自らの権力保持に邁進していた堀川本願寺に、親鸞の継承者の資格など微塵もないではないか。 とりわけ教如に対する弾圧の魔手は、関ヶ原の戦いをピークとしている。教如は准如や石田三成の追手をかいくぐり、栃木小山の家康を陣中見舞いしている。一方の准如は石田三成を見舞っている。当然だろう。三成のお陰で本願寺をかすめ取れたのだから。先述したように、下間仲之は教如よりはるかに謀略に優れていたが、時代の大きな流れを読む力は教如が勝っていたというべきだろう。教如の乾坤一擲(けんこんいってき)の家康陣中見舞いは、その後の流れを決定していった。

【徳川政権の誕生と東本願寺の創立】
関ヶ原の直後、家康は教如と会見し、再三本願寺への復職を申し入れたが、教如が固く断った。これで巷間言われる「家康の本願寺分断説」が風聞に過ぎないことを物語る。前述したように、信長に敗北し、秀吉に翻弄された本願寺には、すでに天下人に対抗する力はなかった。よって今更本願寺の力を分断する必要はなかったのである。家康にしてみれば、関ヶ原の合戦に際して、身の危険を顧みず、小山まで陣中見舞いに来てくれた教如の恩義に報いるには、三成と准如・仲之によって強奪された本願寺門主の座に、再び就かせてやろうと考えるのは当然であった。しかし教如は固辞した。なぜか。その理由は、すでに本願寺は内部で教如派と准如派に分裂していて、教如が門主に復職すれば、今度は准如方が抵抗をするだろう。准如は教如の復讐に怯え、本願寺内で自害して果てる覚悟であったとも言われている。これ以上相争い合うことは、宗祖の意思を継ぐものとしてふさわしくないと思ったであろう。
何より私は、次のように思うのである。下間仲之を中心として、俗界にもまれな陰湿極まる謀議の果てに引退させられた教如にしてみれば、堀川の本願寺は宗祖親鸞聖人の精神などどこにもない、権威と権力を守るためには反対派への弾圧も辞さない魔窟と化したと思ったのではなかったか。引退後の教如が、喜々として新しい本願寺創立に向けて動き出したことを見ると、堀川本願寺(西本願寺)への未練など毛頭なかったであろう。しかしそれは、教如を支持する多くの地方寺院・門徒の存在を抜きに語ることはできない。

【嫡家御取立(ちゃくけおとりたて)】
その上で、教如は家康に寺地の寄進を願い出る。それが現東本願寺の土地である。家康はそれを了承しただけでなく、堂宇の寄進も申し出るが、それを教如はきっぱりと断った。本願寺は権力者のバックアップによって成り立つのではなく、名も無い無数の真実を求める群萌によって成り立つ寺であることを家康に伝えた。ここに私は東本願寺こそ親鸞の精神を唯一継承する「真宗本廟」であることを見出すのである。親鸞-蓮如-教如と受け継がれた浄土真宗は、東本願寺へと確かに伝えられたのである。
家康は教如の復職を断念し、京都東六条の土地を寄進した。そして重臣・本多正信の勧めに従って、「嫡家御取立」すなわち本願寺の正嫡である教如の新本願寺を今後取り立てていくという方針を打ち出す。その象徴が、新本願寺創立に不可欠な宗祖親鸞聖人の御影を、本多正信の斡旋で上野厩橋(前橋)の妙安寺にある親鸞自刻の影像を迎えたことである。 しかしそれをも上回ることは、教如が家康から獲得した「布教と帰属の自由」である。退隠以来、准如方による教如派の弾圧はすさまじかった。秀吉の権威を嵩(かさ)に、堀川本願寺方は教如派を徹底的に取り締まり、生害を加えたのである。家康が天下人になり、西軍を支援した堀川本願寺は政治の動向を固唾を呑んで見守っていた。ここで教如は「布教と帰属の自由」を家康に保証してもらうことに成功した。つまりここで初めて、教如は新本願寺の創立を許されたのである。
ここにおいて教如は下間頼龍ら側近とともに、東六条の新本願寺に入った。1603年正月、教如は妙安寺から御影を迎えた。同年11月阿弥陀堂が完成し、翌1604年四月には御影堂建立に着手し、同年9月には完成し御影の遷座法要が営まれた。しかし世間はまだこの新本願寺を認めてはおらず、「裏方」「七条本願寺」「信門」などと呼んだ。一方で堀川本願寺は「本願寺」「七条門跡」「本門」などと記されている。教如存命中は、新本願寺は独立した一派とはみなされなかった。その没後、元和年間あたりから、「七条東門跡」などと呼ばれるようになって、ようやく公権に認められてくるのである。

【教如の自覚】
教如が家康の再三にわたる復職要請を固辞し、新しい本願寺を創立させた精神は何だったのか。それは教如の中に芽生えた「阿闍世の自覚」と「真宗の教えの正嫡意識」だったと私は考えている。阿闍世の自覚とは、大谷大学の大桑斉氏が言われた説である。大坂拘様に端を発した顕如・教如の相克は、その後父顕如と和解したからといってなくなるものではなかった。とりわけ対立する本願寺の重臣たちに、そのことにつけ込まれて謀略にはまったのであるから、悔やまれてしかたなかったことだろう。しかし、全国を秘回する中で、自分をかくまってくれる多くの素朴な門徒の心に触れ、この人々を救う教えが真宗であることを改めて確信した教如は、観無量寿経の阿闍世の中に自己を見出したと言われる。それは一言で言うと、「反逆」の意識である。仏法に敵対する第六天の魔王を自認した信長への反逆、新たな神になろうとする秀吉への反逆、それらに同調して自分を義絶した父・顕如、重臣たちと共謀して退隠へと追い込んだ母・如春尼、それらが教如の阿闍世の自覚を育んだのだろう。その反逆の阿闍世・教如が、名も無い無数の門徒に支えられ、かくまわれた。彼らへの恩義はいつしか弥陀の大恩に変わっていった。彼らが正客の本願寺であらねばならない。そして逆賊の自分を救ってくれた教えを、生涯守り通すことこそが本願寺の正嫡の使命だということを、教如は心深く刻んだことであった。
その証が、「本願寺親鸞聖人伝絵」康永本の持ち出しである。覚如作の宗祖の伝絵の最終決定版である康永本は、本願寺留守職正嫡の証と言われている。それを教如は、堀川本願寺から持ち出した。東本願寺の西側は高い石垣で守られている。寺の石垣としては異様な雰囲気を持っているが、これは東西分派した当初、11月25日に東本願寺にて「御伝鈔」が拝読される折、西本願寺方がそれを取り返しに来るというので、高い石垣を廻らし、僧兵を置いて警戒した跡だということである。

【東西本願寺の競い合い】
教如が堀川本願寺に復職せず、烏丸に新本願寺を創立したことは、実に先見の明があった。まず不要な争いが避けられた。江戸時代を通じて、西本願寺はその脇門跡である興正寺と何度も摩擦を繰り返し、そのために教団も人も疲弊してしまったと言われる。親鸞の名のもとに、兄弟で正嫡を争う愚は、真宗教団を著しく損なう行為であり、宗祖に申し訳が立つものではない。家康の保証もあって、門末はとりあえず自由に東西両派を選べるようになった。しかし実際には、地方大名の意向が大きく左右し、お東は主に譜代・親藩大名のお膝元に多く、一方お西はかつての西軍つまり外様大名の領地で勢力を伸ばした。従って、教如の理念に従ったというよりも、領主の意向や、教団内の処遇など様々な条件が絡み合い、江戸時代を通じて頻繁に帰参・改派が起こった(東から西へ行くことを帰参、反対に西から東へ行くことを改派と言った)。しかしお互いへのライバル心から、教学や地方の御坊(現在の別院。本願寺の地方行政の中心寺院)を整備し、積極的に布教や引き抜きを行った結果、東西本願寺の教線は著しく伸び、両本願寺を合わせれば、日本最大の仏教教団となったのである。

【宗派名について】
浄土真宗の宗派名については、東西本願寺ともに江戸時代を通じて、不本意ながら一向宗と呼称された。その理由は徳川家の所属宗派は浄土宗であり、「浄土真宗」の名称を求めると、常に浄土宗からの強固な反対によって、実現されなかった。彼らは「浄土真宗というのは、元祖法然上人が開かれた浄土宗のことであり、親鸞の本願寺がその名称を使うことなどもってのほかである」というものであった。真偽によって反対するのではなく、まさに将軍の権威を借りた不当な行為を、江戸時代を通じて両本願寺にし続けた。
明治維新によって幕府が倒されると、浄土宗も将軍家の威を借りることができなくなり、浄土真宗の宗派名が真宗各派寺院に許可されることとなった。 江戸時代を通じて、ライバルとして正嫡を争ってきた東西本願寺であったが、明治時代を迎えて和解と協調の気運が高まってきた。そこで正式な宗派名は東西で協議して、東は真宗東本願寺派、西は真宗西本願寺派ということで申請を行うことになったが、実際ふたを開けてみると、「真宗西本願寺派」から西が削除されていて「真宗本願寺派」で申請されていたのである。これでは「真宗東本願寺派」は本願寺の傍流と見なされてしまい、東本願寺の呼称は使えなくなってしまった。これにより、雪解けを迎えた東西本願寺の関係が、一気に再び冷え込んだと言われる。縷々述べてきたように昔から西本願寺の中心には、こうした謀略的なことをする人間がいるようだ。それに比べて東本願寺は、人が良いというか、疑わないというか、きまじめな宗風がある。そうしたことも教如以来の伝統かもしれない。 正式名称として「東本願寺」が使えなくなり、新本願寺は「真宗大谷派」を名告ることになった。本願寺がかつて「大谷本願寺」と名告っていた故事にちなんだのであろう。
現在では東本願寺も西本願寺も正式名称ではなく、その位置から言われた「通称」に過ぎない。正式名称は東は「真宗本廟」、西は「本願寺」である。後述する東本願寺紛争の際に、大谷門主の一族が、東京にある浅草別院を宗派から離脱させ、「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」という、ややこしい名前をを正式名称として名乗っているのは、まさにこうした歴史を知らないからだろう。東本願寺を正式名称にするということは、本願寺(この場合、西本願寺を指す)を本家とみて、自らを傍流の立場に置く愚かな行為と言わなければならない。

【東本願寺の堕落-教如精神の喪失】
慶長19年(1614年)10月5日、教如は57才でこの世を去った。院号は信浄院。新本願寺は教如の三男宣如が継いだ。宣如の院号は東泰院。教如が創立した東本願寺に宣如が安泰をもたらした、という意味合いがこの院号に現れている。
ともあれ宣如の頃になると、世間でもようやく東本願寺が認知されてくる。東西本願寺は分立と対立の第十二代から、安定の第十三代へと移った。 この頃は、教如が本願寺の嫡男という記憶も遠くなり、既存の西本願寺が本家として都に鎮座しているので、東本願寺はどうしても後塵を拝せざるを得なかった。西本願寺が寺宝や堂宇を継承し、本家としての揺るぎない地位を持つのに対し、東本願寺はそのようなハードウェアをほとんど持っていない。するとそこに、本願寺の正嫡というソフトウェアで対抗するしか術がなくなる。すなわち親鸞の血脈の正統性が強調された。それは宣如以降、東本願寺では門主イコール御真影という生き仏信仰が強まったことを意味する。
また東本願寺の地名である常葉町は、かつての唯善事件によって持ち去られた本願寺の最初の御影が、江戸時代に鎌倉の常盤から発見され、東本願寺に収納されたことにちなんだとされている。それも西本願寺の御影に対するコンプレックスが原因である。西本願寺以前に安置されていた生身御影が本物であり、それを迎えた東本願寺こそ本願寺の嫡流であることを誇りたかったのだろう。残念なことにその「常盤の御影」は、本願寺の倉に収まって以来、一度も公開されていない。これも迷信を否定した真宗ならではの、歪んだ正嫡争いの産物とは言えまいか。 それに加えて、江戸時代250年の太平に守られて、東西両本願寺とも権威主義をエスカレートさせていく。そんな中で行われたのは「大師号下賜運動」だ。両本願寺ともに物心両面で、僧俗を挙げて血眼になって朝廷からの大師号下賜を望んだのである。
思えば教如が新本願寺を創立したのは、権威主義が横行し、権力争いに血道をあげる旧本願寺を見限って、名も無い門徒とともに歩む宗祖の精神の復活を期してのことではなかったのか。東本願寺にはハードウェアは何もないが、親鸞の御同朋御同行の精神こそが、浄土真宗の宝であることを教如が明らかにしたはずであった。しかるにまたぞろ、そうした教如の精神を忘れ、権威を求め、権門にすりよる反親鸞の悪弊が、東本願寺を蝕み始めたのである。朝廷や将軍家を始めとして、大名公家等との縁組みが繰り返され、今や本願寺門主は雲上人となり果てた。それを喜ぶ僧侶・門徒の精神には、もはや宗祖親鸞聖人や中興蓮如上人でさえも阿弥陀仏の化身とみなされ、その行実が神話化され歪曲されたのである。
徳川幕府が倒され、近代が訪れても、教如の精神を喪失した東本願寺は新時代に対応して生き残るため、皇室や政界と密接な関係を持ち続けた。戦時体制への協力も、その文脈の中で起こっている。教如精神の喪失と堕落は、昭和天皇の義理の妹を裏方に迎えた時、宗門の僧俗が「これでやっと西本願寺に並んだ」と言って喜んだことが、最もそれを象徴していると思える。 しかしその一方で、東本願寺に地下水のように流れる純粋な信仰を求める教如精神は、まだ枯渇していなかった。清沢満之らによって教学の一新や宗政改革が叫ばれた。「大谷派なる宗教的精神」は清沢によって提唱されたが、これこそ「真宗再興」「歎異精神」「教如精神」とも呼びうる、真宗における至極の精神である。こうした流れは、時には細く、時には激流になって東本願寺を刷新していく。 東本願寺第二十四世闡如に端を発した開申事件は、東本願寺大谷家による宗門私物化を露呈し、それに対して民主的な宗門運営を願う内局側との、いわゆる東本願寺紛争に発展した。20年の激しい闘争を経て、大谷家は門首となり、宗門の象徴に収まった。この紛争において内局や心ある人々を支え続けた精神が、「大谷派なる宗教的精神」であった。

東本願寺は江戸時代を通じて、4度の火災に遭った。別名「火だし本願寺」と揶揄されるほどだった。最後の火災は蛤御門の変(禁門の変)における長州派の放火と言われている。東本願寺が徳川家と深い関わりを持っていた故の放火と考えられる。
一方、西本願寺は1600年代に火災に遭って以来、これまで火災には縁がなかった。そのため本願寺に伝えられた宗宝(親鸞聖人たちが残してくださった宗派の宝)のみならず、豊臣秀吉の聚楽第の遺構とも言われる様々な建築物は、安土桃山時代の至宝として、世界遺産に数えられている。西本願寺は京都で最も世界遺産の多い寺院とも言えるのだ。
そうした西本願寺に対し、東本願寺は世界遺産などは何一つない。しかしこの東本願寺こそが、教如精神によって「親鸞聖人の教え」を唯一の宝として継承してきたことを、今私は信じて疑わぬ。
この度の教如上人四百回忌法要は、私にとって親鸞-蓮如-教如-清沢満之-同朋会運動と流れた真宗至極の精神の潮流の再確認であり、それは今も脈々と私たちの大谷派に流れていることを確信したことであった。